北区への想い
神奈川県横浜市生まれ、北海道札幌市育ち。10代は北海道、20代は神奈川、東京。
父の転勤で引っ越しが多かった私には、“地元”と呼べるところはありません。
“ありません”、という言い方は少し断定的すぎますが、“地元”と聞かれると迷ってしまうんです。
神奈川だろうか、北海道だろうか。
そんな風に生まれてから居住地を転々としてきた私が「あ、住みやすいな」と感じたのが北区でした。
ほどよく都会でほどよく郊外。
住んでいて、そんな印象を受けました。
赤羽駅の私が住んでいる家の周辺には商店街が広がり、家から5分圏内にはスーパーマーケットが大小含めて5店舗ほどあります。
商店街の中には小学校が隣接し、高架下を歩けば中高生が朝夕通学で行き来しています。
「駅周辺でなんでも揃う」そんな街は、子どもから、私のような独身者、家庭のある人、お年寄りまで多様な人が暮らしやすく、“地元”を持たずに流れ着いた私のようなものをも温かく迎え入れてくれるような空気が流れていました。
そんな風に住んでみると素敵な街ですが、「場所がわからない」、「治安が悪そう」などイメージがあまりよくありません。
そして実際には確かに歩きたばこやポイ捨ても多く、夏場の駅高架下はし尿の臭いが漂います。
いい街なのにもったいない!!!
北区の良さをもっと知ってもらって、住んでいる人には住みやすい街だと実感してもらえるような街づくりをしたいです。
なぜ立憲民主党なのか
立憲民主党の掲げている「共生社会の実現」は、私の考えている「すべての人が暮らしやすい社会づくり」をしたいという志と一致するからです。
人は生まれながらに平等、ではありません。
残念ながら貧富の差など生まれた家庭や環境によって生まれた時から“差”があります。
しかし、法や福祉や教育において人は平等ですし、平等であるべきです。
もしも何かハンディキャップがある場合には手を差し伸べる必要があります。
その「手を差し伸べる」ために政治はあります。
私も28歳になり、周りは結婚出産子育てをする人も増えはじめましたが、「結婚資金がないから結婚式を挙げない」とか「子どもは3人以上欲しいけれど、子育てや教育費にかかるお金を考えると2人が限界かな」、または「同性パートナーとの子どもが欲しいけれど、養子も難しいし、制度が整っていないから子どもを持つことは難しいかな」そんな声を耳にするようになりました。
もったいなくないですか??
日本はみなさんがご存知の通り出生率が極めて低い国です。
子どもが欲しくなくて、その結果であればまだ納得がいきますが、「子どもを欲しくても金銭的な理由から諦める」、「まだまだ同性同士の結婚やパートナー制度が確立されていないから諦める」なんて、もったいないです。
しかし、今の日本の社会ではそれが現実なのです。
そんな現実を変えるためには、制度を変える必要があるのではないでしょうか。
今の日本では制度に人が合わせなければいけなくなっています。
そうではなくて、本来ならひとりひとりのニーズに沿った制度をつくるべきなのです。
それを立憲民主党であれば草の根から行えると信じ、今活動しております。
パーソナルヒストリー
1990年 神奈川県に生まれる
1997年 北海道旭川市立朝日小学校入学
1998年 北海道札幌市立羊丘小学校転校
2000年 北海道札幌市立清田緑小学校転校
2003年 北海道札幌市立清田緑小学校卒業
2003年 北海道札幌市立清田中学校入学
2006年 北海道札幌市立清田中学校卒業
2006年 北海道札幌旭丘高等学校入学
2009年 北海道札幌旭丘高等学校卒業
2010年 青山学院大学文学部日本文学科入学
2014年 青山学院大学文学部日本文学科卒業
2014年 青山学院大学大学院文学研究科日本語・日本文学専攻入学
2015年 青山学院大学大学院文学研究科日本語・日本文学専攻退学
2016年 株式会社セブン‐イレブン・ジャパン入社
2017年 株式会社セブン‐イレブン・ジャパン退社
2018年 神奈川県議会議員事務所スタッフ
1990年神奈川県横浜市に生まれる。
幼稚園までを横浜で過ごし、小学校入学時に父親の転勤で北海道旭川市へ。その後小学校2年生に上がった6月に札幌市へ。
幼い頃から本が大好きで転校する先々の学級文庫を全て読みつくしていた。
小学校5年生の時に母方の祖母が脳梗塞で倒れて半身不随で失語症に。言語を話せない祖母を見て、この頃から無意識にではあるが健康寿命の大切さを考えるようになる。
小学校で児童会、中学校で生徒会に入る。
中学校1年生の時は合唱委員となり、合唱コンクール金賞へクラスを導く。
高校では合唱部に入部し、ソプラノのパートリーダーを務める。文化部でありながら体育会さながらの指導を受ける。
この頃から人権問題に関心を持ち、女性差別、子どもの人権、部落差別について調べ、人権ゼミに入った。
大学では幼いころから好きだった本を学ぶべく青山学院大学文学部日本文学科へ。サークルは国際ボランティアサークルに入り、貧困層の人の家を作りに2週間インドへ行った。
また、LGBTの人のためのサークルを発足し、1年間公認サークルになった。
大学卒業後は大学院へ進んだが、「社会へ貢献したい」という気持ちと「好きな文学を学びたい」という気持ちのせめぎ合いとなり、大学院を中退する。中退後は流通小売り系の企業へ入社。
2016年に半身不随の祖母を16年間介護していた祖父が他界。その際に介護の現実を目の当たりにし、家族のみで介護を引き受ける限界を知る。そこで、2017年企業を退社。
祖父が亡くなったことをきっかけに、「悔いのない人生を」と思いLGBTや女性の人権について活動できる手段はなんだろうと考え、政治の道を志す。議員事務所に勤めるなどして現在に至る。
「一度聞いたら忘れない、すぐ書ける名前がいいんだよ」
これは亡くなった祖父が私の名前を決める際に言った言葉です。
幼少期
1990年 神奈川県横浜市に両親ともに一人っ子の一人娘として生まれる。
2390gの未熟児であったが、保育器に入れなくてよいほど元気な産声をあげる。
幼稚園の頃は今では考えられないほど人見知りが激しく、体験入園で大泣きするほどだった。しかし、環境になれると積極的に幼稚園の先生のお手伝いをしたり、自分よりも年少の面倒を見たり、幼稚園に行きたがらない友達の家の前でよく待っていたりと世話焼きな面がこの頃から徐々に現れていた。
小学生時代
小学校にあがると同時に父の仕事の転勤により北海道旭川市へ。この頃からの転校がきっかけで人見知りが徐々に改善される。
小学校1年生の夏休み明けには全校生徒代表で作文を読むまでに。
小学校2年生にあがった5月、父の転職により今度は札幌市へ。
小学校4年生にあがり引っ越しにより転校。その際もらった同級生からの大きな寄せ書きは札幌の実家の部屋に今でも飾ってある。
小学校4年生で児童会に入る。学校祭や学習発表会などのお祭り行事が大好きで、小学校6年生の学校祭では率先して委員を務め、学習発表会では「べっかんこ鬼」で「やまかか様」という役を務める。
中学生時代
演劇が好きだったので中学では演劇部、と思っていたのだが中学に演劇部がなく、吹奏楽部に入ろうと考えていた矢先、母親に「学業に専念してほしい」と言われ塾に通い始める。
少し遠かったため、友人の親と交代で両親が送り迎えをしてくれていた。そのおかげで志望校に入学できたので本当に母親には感謝している。
塾の先生には、学内行事があると勉強に手が付かなくなるタイプだったので「お祭り女」と揶揄された。
そんなお祭り女は中学校1年生の合唱祭で合唱委員を務め、朝練や放課後練習を行い過ぎで親御さんからクレームが入るほどだったが、めでたくクラスは金賞を受賞。
中学3年生では、学校祭で舞台を使えるクラスが限定されていたため、審議を通過できるように画策して見事舞台を使ってダンスを行えた。
高校生時代
自ら望んで進学した学校だったので中学校の時よりも伸び伸びと過ごしていた。
高校見学の時から魅了された合唱部へ親の許可も取らずに入部。後から「ちゃんと勉強も頑張るんだよ」という約束でしぶしぶ母も了承してくれた。結果的に部活にのめり込んでしまったため1年間浪人したので申し訳なかった。
しかし、両親ともに全国大会には毎回応援しに来てくれていた。
高校生になってからまともに家族旅行が出来なかったが、この大会のおかげで家族旅行に行けた気になれた、と母がよく言ってくれていた程、うすい家にとって大切な行事だった。
3年間の合唱部の全国大会で島根、岩手、埼玉など全国各地を回れたこと、多くのステージに立つことが出来たこと、ソプラノのパートリーダーとしてパートを取りまとめていたことなどは未だにいい経験であった。
また、この頃から人権に深く興味を持つようになり、女性の人権や部落差別などをテーマに論文を書いて人権ゼミに入った。
浪人時代
何にも属さないモラトリアムが少し怖かった時期。しかし、合唱部時代仲が良かった友達も一緒に浪人したため、楽しい浪人生活だった。
この頃に「大学生になったら今まで自分がしたことをないこと、興味を持たなかったことを積極的に行おう」と考えたため、大学の時に国際ボランティアサークルへ入部することになる。
高校以上にある意味で濃密な1年間だったため、この頃の友達とは未だに仲が良い。
大学生時代
苦節一年。本が大好きで好きな作家の母校へ、という想いから青山学院大学文学部日本文学科へ入学。大学生の頃が一番積極的に勉強していたように思う。
浪人時代の考えにより、フットサルサークル、ボランティアサークル、映画サークル…など合わせて10ほどのサークルに入った。ボランティアのサークルではインドへ2週間行き、家を建てて帰ってきた。
また、レインボーパレード(現在のTRP)に行ったことをきっかけにLGBTの人のための居場所づくりがしたいと考え、公認サークルを創設した。
大学卒業後から今まで
大学卒業後は大学院へ進んだが、「社会へ貢献したい」という気持ちと「好きな文学を学びたい」という気持ちのせめぎ合いとなり、大学院を中退する。中退後は、ダイバーシティを推進する部署があった流通小売り系の企業へ入社。
2016年に半身不随の祖母を16年間介護していた祖父が他界。その際に介護の現実を目の当たりにし、家族のみで介護を引き受ける限界を知り、それと同時に2017年に企業を退社。
祖父が亡くなったことをきっかけに、「悔いのない人生を送りたい」と思い模索する中で、LGBTや女性の人権についてダイレクトに活動できる手段はなんだろうと考え、政治の道を志す。
議員事務所に勤めるなどして現在に至る。